今までの辛かった話

※つらつらと書き殴っていたらだいぶ感情的になってしまいました。辛いです。

 

わたしは2歳の頃から音楽教室へ通っていたそうで、ピアノに触った記憶があるのは少なくとも4歳の頃だ。小学校に上がる頃に有名な先生の試験を受けて、その音楽教室の中でもトップクラスに属することになった。

小学3年生までは、順調だった。1年生の頃は一人で3曲、連弾で2曲、発表会で弾いたし、3年生の頃はエリーゼのためにを弾いた。4年生の頃から、確実に風向きが変わってしまった。

わたしは練習が好きじゃなかった。ピアノを弾くことは好きだったけれど。ずっとそれなりに練習していたつもりだったけれど、なんせトップクラスなので、周りの上手な子たちに追いつくために、めちゃくちゃ練習しなきゃいけなかった。

「練習しなさい」「えー(もっと漫画読みたいのに)」「練習しないとコンクールで金賞取れないよ!」「(もっと絵を描きたいのに)」「やることやったら、他のことやってもいいよ。」

今にして思えば脅しだったと思うし、教育の失敗だと思う。なんなら虐待とすら思う。ずっと「楽しいからやってる」だと思ってたのに、「やることが義務」になってしまった。

わたしは親にそう言われても何もやる気が起こらなかった。隠れて漫画を読んだ。でも、物凄く罪悪感に見舞われた。「ピアノの練習しないで、漫画読んでる……」「なんて悪い子なんだろう」と思った。それでも、ピアノをやる気は起こらなかった。この時は、何故なのか分からなかった。

でも、今は言える。「なんでやりたくないことをやって、やりたいことはやっちゃいけないの?」と。「やりたいことやってないのに、やりたくないことなんて出来るわけ無いだろ!」と。

きっとそのやり方が合っている人もいる、弟がそうだ。弟も母も、きっとそのタイプだったんだろう。でもわたしは違った。先にやりたいことをやってからの方が、集中力や取り掛かりが良いのである。

理解できない人もいるかもしれないけど、少なくともわたしはそういうタイプだった。きっと母には100パーセント理解できない。もう、理解されなくてもいいけど。

でも、それが地獄だった。あの当時は誰も理解してくれる人がいなかった。母も弟も、わたしのことを非難し、否定し続けた。わたしは、本当に自分がダメな存在なのだと思うようになってしまった。

ちなみに高校生になってからはこれを悪化させて、「ピアノも勉強もやってないんだから、やることやるまで漫画とか読まないっこしよう!」と決意したものの、結局ピアノも勉強も手をつけられず、かといって漫画を読むわけにもいかず、何もしない時間を過ごすという本当に無駄な日々を送ってしまった。漫画を買うけど読んじゃいけないからテーブルの上に積んでいく。あの頃からおかしくなってしまったと思うし、物語に触れなくなったことで脳も萎縮していったと思う。でも、漫画は読んじゃいけなかったのだ。母にそう言われていたから。今でも引きずっている。なかなか漫画を読むことができない。

話が脱線してしまったけれど、小学4年生の頃からピアノ人生は右肩下がりの一途を辿った。周りは上手な子ばかり、先輩には音大に入った人もいる。小学校の頃に書いた「将来の夢」という作文では、ピアニストになりたいと書いた。音楽教室のクラスでは下から数えた方が早いわたしの実力も、小学校ではトップだった。小学4年生の頃、「このままじゃ、プロには……」「大人になって趣味でピアノやるなんてねぇ……」という、母と先生の会話を耳にした。わたしは、「趣味でピアノはやっちゃいけないんだ」と思った。「プロにならなくちゃいけないんだ」「わたしはプロになるんだ」と、思った。わたしはピアニストになるんだと、思っていた。

そのまま中学生になった。その頃には、同じ理由で宿題も出来なくなっていた。宿題もピアノもできない。わたしはどんどん落ちこぼれていった。

高校受験の時に、進路をどうするのか話し合った。公立の進学校へ進んで、音大に入り、音楽の勉強をすることがわたしの夢だった。とにかく、音大で音楽の勉強がしたいと思った。でも真っ向から否定された。

「そんなに練習しないで入れると思ってるの?」「勉強もしないのに」「音大はお金がかかるから、入れても国立しか無理」「本気でやってる他の子達には勝てないよ」「音大に行って何になるの?」「音大に進んでもピアニストになれない人はいっぱいいる」

母は「なんでこの子はこんなことを言っているんだろう?」という感じだった。無理もないけれど。こちらとしては「どうしてそんなことを言うの?」「ピアニストになるってそちらがずっと言っていたことじゃない」わたしはこの時、自分が間違ったことを言っているなんて思わなかった。だから、すらすらと口から「音大に行きたい」と言葉が出た。

もっと最初から言ってくれればよかったのに。「プロのピアニストになれたらいいね」というのは親の夢でもあったと思うけど、夢ばかり与え続けるなんて酷だ。ずっと信じてきたのに。「趣味程度で続けられればいいね」とでも、言ってくれればよかったのに。

結局高校受験の時は決められず、公立高校を受験した。けれど勉強しなかったので落ちてしまい、結局滑り止めの私立高校へ入学することになった。

私立高校では、特進クラスに入って国立大学を受験したかったけれど、勉強しなかったので普通クラスにしか入ることができなかった。一年勉強を頑張ると次の年では特進へ行ける、と言われたけれど、何を頑張ればいいのかわからず燃え尽きてしまっていて、結局普通クラスで3年を過ごした。

高校1年生の時はまだ音大へ行きたいと思っていたけれど、自分の堕落ぶりに、2年生の時にはもう半分諦めていた。進路はどうするのか、決めないといけない時期だった。わたしは、諦めることを余儀なくされた。周りの応援は一つもなかったから。

将来何をしようか悩んだ時、親に「せっかくピアノをやっているんだから、ピアノを活かす仕事がいいんじゃない?」と言われ、保育士を目指すことにした。子どもも好きだったし。早く次を決めたかったので、AO入試でそそくさとそこに決めた。進路を決めるまでが本当に無理で、毎回吐きそうになりながら大学を調べていた。

わたしは中学の頃から家を出て一人暮らしがしたかったのだけど、親が許してくれず家を出ることができなかった。大学になったら出れるかと思ったけれど、結局実家から通った方が若干安いという結論に至り、家を出ることができなかった。通学に片道2時間かかった。あの人はわたしの4時間をなんだと思っていたんだろうな。

弟にもめちゃくちゃ反対された。「部屋の片付けも料理も手伝いもしないくせにできるわけがない!」と言われた。確かにしなかったけれど一人になったらやるに決まってるだろ。せっかく人がやる気になってるのにお前らが人のやる気を削ぎまくってるの分かってる?ちなみに部屋の片付けも手伝いも、前途した「やりたいことやってないのに何でやらなきゃいけない?」に通じる。

高校・大学の時も、ピアノの練習はしなかった。いつしか母は「そんなに練習しないんだったらピアノ辞めれば!?」と言うようになった。それも分からないではなかったが、「なんで好きでやってるのに辞めなきゃいけないの!?」「わたしからピアノを取ったら何が残るんだろう」とアイデンティティがぐらぐらに揺らがされ、毎度言われては泣きじゃくっていた。この人、わたしの精神が死んでいることに何も気付かなかったんだろうか。散々言われたある日、わたしも疲弊しピアノを辞めた方が良いのかもしれないと思い、意を決して「ピアノ辞める」と伝えたことがあった。すると母は心底驚き、「辞めるの!?ッハァー……今までのは何だったんだろうね」と言った。あんなに辞めることを推していたのに、いざ辞めると伝えるとどうしてそんなことを言う?わたしの人生丸ごと否定していることにも気付いていない。その矛盾が引っかかり、結局ピアノは続けた。わたしが社会人になるまで、辞めなかった。

保育士を取り、あと一年学校に通えば介福も取れると知り、この時も散々悩んで保険のつもりで介福を取ることにした。その時母は「あなたは子どもより介護の方がいいと思っていたのよね〜」と言った。ちなみに保育を取るため大学に入る時は「ピアノ活かせるし子ども好きだしいいと思う!」と言っていた。そして介福で就職後は「まさかあなたが介福になるとは……」と言った。何言ってんだこいつ?自分で何言ってるか分かってるのか?もう嫌だ本当に嫌だ付き合ってられない声も聞きたくない。

母の矛盾に付き合わされて育ち、母の言うことは一つも信じられなくなった。母が「可愛いね」と言ってきても信じられないし、気持ち悪い。母と弟に否定され続けた自分のことも信じられなくなった。早く死んでしまいたい、と毎日思っていた。

わたしのやりたかったことを、わたしの夢を否定し続けた母さん、今どんな気持ちですか?嬉しい?あなたの子育てが人をこんなにさせましたよ。理想ですか?良かったですね。おかげでわたしは、「漫画読みたい」「ドラマ見たい」「あれしたい」「これしたい」と思っても、「でもまだ家事掃除洗濯してないし……」「わたしなんかが漫画読んだりしていいのだろうか……?」と思って何一つ趣味ができない人間になりましたよ。誰と話してても何にもついていけません。人としてつまらないから話し相手にもされません。最悪ですね。娘の気持ち、考えたことありますか?

わたしは母さんの気持ち考えたことあるよ。大変だったろうと思うよ。でも、あなたがわたしの気持ちを考えようとしてくれたことは無いので、一切歩み寄りません。どうしてわたしばかり受け入れていかなきゃいけないの?

もうわたしの人生に口を出してこないでください。わたしをこんなにした責任も、取ってくれないんでしょう。もう、いい加減にわたしの中から消えてよ。さようなら。いつになったら自由にしてくれる?わたし、いつになったら自分のしたいことしてもいいの?

もう解放して

決められない話

よくある、学級会などの「これに対してはどう思う?」「学園祭があるのでやりたいこと申し出てください」などの意見を出す場。とてつもなく苦手だった。

「これに対してはどう思う?」と聞かれるとプチパニックになり、ええとええと、とオロオロすることが多かった。「どう思うことが正解なの?」と正解ばかり気になって、他の友達が「これはこうだと思う!」という意見を聞いて、「ああ、そういう回答が欲しかったのか」と納得する、という事が多かった。友達がした回答のような発想は微塵もないのだ。

「学園祭でやりたいこと申し出てください」と言われても、「学園祭と言われても……劇とか?カフェ?」「でも準備するの面倒臭そうだし、わたしは劇なんて出来ないし……」とデメリットに感じたものは全部言えず、「(なんでもいいよ、そんなの……どうでもいい……)」と、心の中でぼやくだけだった。

そう、「どうでもいい」、と思っていた。胸が痛んだ。なぜ痛んでいるのか分からなかった。でも、どうでもいいわけでは無かった、ということだな。「わたしがわたしの意思を無視している」という事実は、自分で分かっていたんだ。

いずれ、本当にどうでもよくなってしまった。でも、決められたことにはちゃんと取り組むと心に決めていた。

 

今でも、例えば「ご飯何食べ行く?」となって、「肉?魚?」など、聞かれても答えられない事がしばしばある。相手が決めてくれたら楽なのに、と思う。でも食事に関してはきっとみんな面倒臭いよね。けど、比較的決めてもらっている事が多い。

今日着て行く服さえ、昔は決められなかった。まず、自分で服を買えなかった。お金が無かった。時たまのショッピングも、高いものはきっと買ってもらえないという諦めが先行していて(実際そうだったし)、安い服ばかり選んで、悩んで悩んで垢抜けない服ばかり買っていた。ファッションの知識も無かったから、周りに追いつくのは2年くらいかかってたし、ファッション誌も買ってもらえなかった。その反動で、今では、あの頃手の届かなかった服ばかり選んでいる。

「自分で決める」ことを教育されなかったので、自分で自分を教育するしかなかった。今では、なるべく自分で決められるようにしている。ちゃんと頭で考えて、悩んで、「肉が食べたい!」と言うようにしている。それさえ結構な決意だ。

自分で自分を決められるようになってきた今は、だいぶ自分の色が付いてきたような気がする。あの頃は、何も自分のことを決められなかったから。自分が何者なのか、分からなかった。

今まで一番辛かったのは、「習い事のピアノを続けるか」、「進路はどうするのか」、だったと思う。

自信が持てない話

「自分が世界の中心にいるのではない」と気付いて、小学校にあがった。

親の一番はわたしだと思っていた。だから家族に向かっては自分が何を発言してもいいと思っていた。その中では許されると思った。だからこその自己中発言と、その性格だった。

外では、人見知りを発揮し自分のことをうまく表現できず、自分のこと、自分の意見を伝えることができなかった。優柔不断で何も決めることができない。物心ついた頃から、なぜだか「正解以外のことは言ってはいけない」と思っていた。正解かどうか自信のないことは、何一つ言うことができなかった。わたしには、それが全ての物事に適応された。今でも苦手だ。

「何して遊ぶ?」と友達と話すときも、相手に決めてもらうことが多かった。「たまにはあなたが決めてよ!」と言われても、「お絵描きするか、かくれんぼするか……」で悩んでしまい、結局決められず夕方5時になり家に帰らなければならなかった程だ。それ程にわたしが「選択する」ということに自信が持てなかった。

また、自分のことを言うのも苦手だった。否定されるのが怖かった。ガラスハートでとても傷つきやすい。否定されてもされなくても、すぐに泣いてしまった。

「否定されて傷つくぐらいなら、わたしが選ばなくてもいい。わたしが選んだものに自信は持てないし、あなたが選んだものでいい」と思うようになった。次第に、「どちらでもいいよ」と相手に任せ、自分が何をしたいのか分からなくなってしまう。成長過程で、「どちらにもメリットはあるし、デメリットもある。別にどっちでもいいな」と思うようになった。でも、どちらかには決められないのだ。

今では、あの時から「認められたらよかった」のだと思う。特に苦手な「選択する」ということを、もっと教育されればよかったのだと。「あなたの選択は、何も間違っていない。何かしたいのなら、それをすればいい。それをすることは間違っていない。」と、周りの大人から認められたらよかったのだ。そうして、少しずつ「選択する」という苦手を克服できればよかった。それに気付いたのは、わたしが高校を卒業した18の春だった。

 

幼少期の話-2

父と離れて暮らしても、時々電話で話したり、年に2度ほど帰ってきたり、関係は良好だった。

母と兄弟4人の暮らしも変わりなかった。大人になるまでは、兄や弟とは決して仲がいい関係ではなかった。兄は構ってくれないし無視してくる。兄だけが持ってるゲーム機器や漫画は貸してもらえず、兄の部屋に入ることも許されない。弟とは「お前なんか〜!」「死ね〜!」など毎日殴り合いの喧嘩ばかり。仲良くすることは、なかなかできなかった。

わたしは生まれつき人見知りで、親の後ろに隠れて出て来れない性格だった。一方で、わたしを中心に世界が回っていると思うようなワガママで自己中心的な面もあった。

幼少期のある日、母と弟とスーパーへ買い物へ行った。子どもならみんなおやつを買いたがるであろう、わたしもその1人だった。「ひとり100円までね」と言われ選んだおやつはもちろん100円以下、弟は100円以上のおやつを手にして母の元へ駆け寄った。根は真面目なわたしは「そのおやつは駄目だよ!ねえお母さん!」と母に詰め寄る。駄々をこねる弟。すると母は「もう、仕方ないなぁ」と許してそのおやつを買うのである。わたしは納得がいかず、買おうと思っていたおやつは買わなかった。

ある日、夕飯でおかずがあまり、争奪戦に発展した。

「わたしも食べたい!」「お前は駄目だよ!俺が食べるの!」「なんで!わたしも食べたい!」「え、お姉さんが食べるの?」「俺が食べてもいい?」「いいわよ。」

すべて優先されるのはわたしではなく弟ばかり。

この時、世界がわたしを中心に回っているのではないのだと自覚させられた。

それから、「わたしは選ばれないんだ……」「わたしはだめなんだ」と、いけない存在なのだと思うようになってしまった。

幼少期に目立った「自己中でワガママなわたし」は、小学校に上がる前、幼稚園のこの時に死んだ。

幼少期の話

ただわたしは、親に認められたかった。

結果が出せなくても、努力できなくても、頑張れなくても、「あなたはこういうところがある。そういうところが良いよね。」など、言って欲しかった。

 

うちは父、母、兄、わたし、弟の5人家族。

昔は父も母も大好きだった。兄は少し歳が離れており、あまり構ってくれず、まるで一匹狼のようだった。弟は、年子でよく喧嘩ばかりしていた。

ある日、父の会社が倒産し、父は上京して出稼ぎに出ることになってしまった。

父が家を出なければ、もしくは父について家族で上京していれば、わたしはもっと変わった生き方をしていたのではないか、と思う。

わたしが小学校に上がる前の5歳に満たないこの日から、わたしたちは東北の田舎で、4人で暮らすこととなった。

自分に向き合うために

わたしが自分に向き合うために、自分の過去と向き合うために、作りました。

簡単に言うとアダルトチルドレンです。自称ですが。精神科などにかかったことはありません。

でも常に母親に縛られている気がしてつらいのです。親元を離れても、ずっと縛られている気がする。

昔のことを振り返って記事を書いたり、これからはこうしたらいいのではと考えたりして、心の整理をしていきたい。

インナーチャイルドを育てて、昔のわたし、これからのわたしを、許していきたい。

ただ、楽しく人生を送りたいだけです。

そのための一歩が、このブログ。

きっと幸せになる。

 

わたし……20代♀。3年前に東北のド田舎から上京。その際に元凶の母から離脱。でもある日、ふと昔のことを思い出してしまい、未だ心の根っこでは母に縛られていると気付くこととなる。蛙化現象でなかなか恋人を作ることができなかった。現在はお付き合いしている彼がいる。